これは、痛みに悩み、不安や恐怖と闘っている人、今まさに痛みを克服せんと起ち上がった人を叱咤激励、鼓舞する言葉であります。
それぞれの人の顔を思い描きながらフト思ったことを書きとめたものでありますから、感情的であり、抽象的であります。
ご自身の「痛み」と照らし合わせ、それぞれ自由に感じていただければ幸いであります。
「痛み」と変化
変化しているものを変化し得ないものと見ることが誤りである。
肉体の変化、環境の変化、人間関係、夫または妻の変化を認めないのは自分の内にある変化しない心である。
変化しない心は心の本性である自由、創造、調和に逆らうものであり、本性に抗うが由えに苦しみ、辛いのである。
変化を恐れるなかれ、それは一時的に苦痛を伴うものかもしれぬ。
しかし、変化とは善くなろうとする力を発動させる源であり、変化そのものが自己治癒力なのである。
動き出すときには、最も摩擦が大となるのである。
摩擦を恐れて動かざるは、仮想の敵をこしらえて白旗を振るものである。
最も力の欲するときに力を出さないのは停滞ではなく敗退である。
最も摩擦の大なる時期を確固たる信念により乗り越えたときに、小なる力、その惰力によって健康の道へと転がり出すのである。
摩擦を恐れて動かざるは、善くなろうとする内なる力の道を閉ざすものである。
たとえ一時的に、表面的に、自らの望む方向と反対の結果が出たとしても、信念を緩めてはならないのである。
諦めてはならぬ。
不健康という心の習慣が健康という心の習慣に変わろうとしているのだ。
心の成長を妨げてはならぬ。
新たな舞台へ立とうとする心の変化を邪魔してはならぬ。
自分への親切心、同情心が、かえって成長を妨げるという事実を知らねばならぬ。
自分への親切心、同情心というブレーキを掛けることは、心では健康、成長という新しいステージを望んでいながら稽古するなと言っているものである。
指導者が悪い、教え方が悪いといって、または、自分には無理だ、自信がないといって自分を慰めてはいないか。
慰めるくらいの覚悟ならば、新しい舞台への夢や希望をもつこと自体が苦痛になるのである。
症状や痛みのせいにするのもまた同じである。
自分で自分を縛っておいて二進も三進もいかなくしているのである。
諦めるとは失敗した自分を想像し恐怖することであり、まだ見ぬ仮想の敵をこしらえて白旗を振るものである。
光の進む道に闇はなし。
あなたの進んだ道が後進への光となり希望となるのである。
Hさん、Yさん、Sさんに贈る。