前回、体の「痛み」に対する恐怖心を克服する方法という記事を書きましたが、これは「痛み」に対するイメージをクルリと反転させることで恐怖心を克服するというものであります。
「痛み」を敵と見て恐怖するか、「痛み」を味方と見て感謝するかという話でありますが、言い換えれば自己治癒力、自分の生命力に感謝するということであります。
さらに言えば、痛くないところにも「健康でいてくれて有り難う。」であります。
ものの見方、感じ方というものは自由自在であり、無限にあるのであります。
四面楚歌の状態においても上を向けば広い青空が広がっているのであります。
肉体は心の現れでありますから見方、感じ方によってその後の症状も変わってくるのであります。
「痛み」をどう観るか
一水四見という言葉がありますが、同じ水を見ても見る者が変われば異なって見えるのであります。
一水四見(いっすいしけん)とは、唯識のものの見方。認識の主体が変われば認識の対象も変化することの例え。
人間にとっての河(=水)は
天人にとっては歩くことができる水晶の床
魚にとっては己の住みか
餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れ
というように、見る者によって全く違ったものとして現れるという。
「痛み」も見る人によってそれぞれであります。
同じ「痛み」でも、整形外科に行けば「骨の異常」と言われ、整体に行けば「筋肉の緊張」と言われるのでありあります。
骨屋は骨を見て、肉屋は肉を見るのです。
さらには、診療する科によっては自律神経失調症、うつ病、身体表現性障害、更年期障害、中枢性過敏症候群…等と診断されるのであります。
同じニュースを見ても株価が上がると言う人がいれば、下がると言う人もいるのであります。
雨が降って困る人もいれば、恵みの雨に喜ぶ人もいるのであります。
「痛み」を敵と見るも味方と見るも自由自在であり、「痛み」を見ないというのも一つの見方であります。
ものの見方というのは心の進む方向を定める舵であります。
右を向けば右に寄り、左を向けば左に寄るように、人は顔の向いた方向に向かって進んでいくのでありますから物事をどう観るか、どう捉えるかによって感情も行動も変わっていくのであります。
光を欲するのであれば光の方を向き、光に向かって舵をとるのは当然であります。
「治らない」という方向に舵をとって「治りたい」と思うのは光を欲し闇に向かっているのと同じであります。
未だ灯台の光は見えなくとも、見えないから灯台は「無い」のではありません。
舵をとる方向が違うだけであります。
灯台は無いという人は灯台を見つけることができなかった人であります。
進む方向が間違っているか、手前で諦めて引き返したか、初めから無いと決め付けているかなのであります。
闇に背を向け、心の舵を光の方向にクルリと反転させ真っ直ぐ突き進んだ先に灯台は現れるのであります。
遺伝による股関節痛
3年前から股関節痛で悩まれていたAさん(50代 女性)の話であります。
「もう、諦めていたんですが…予約お願いします。」
という電話がはじまりでした。
持参されたMRI画像を拝見しながら色々と今までの経緯をお伺いしたところ、ペインクリニック、整形外科、整体、気功…等で治療していたとのことであります。
今まで、
「骨の異常(変形)は遺伝的なものである。」
「(耐用年数の関係上)年齢的に人工股関節はまだ早い。あと20年くらいすれば人工股関節の手術ができる。それまでは「痛み」と付き合うしかない。」
「筋力をつけなさい。」
と言われて諦めていたというのであります。
私はお話を聴いた後に質問することにしました。
「骨の遺伝と痛みは関係あるのでしょうか?」
「骨の異常であれば、いつも同じところが同じように痛くなるのではないですか?」
「寿命を他人に決められ、寿命から逆算して手術をするのですか?」
「(仕事上)筋力は他の人よりあるはずですよね?」
文章にすると少し意地悪な質問でありますが、雑談程度の軽い会話であります。
その後、「痛み」と体、体と心の話をさせて頂き施術をしたのであります。
この時、私は「筋肉の緊張」という言葉を使って「痛み」を説明していたのですが、Aさんの頭の中では「筋肉痛」に変換されていたのであります。
股関節の筋肉痛なら治らないはずがない。治って当然。という訳であります。
今まで遺伝、骨の変形が原因と言われて諦めていたのだけれども、「股関節の筋肉痛」であれば諦める理由にはならないのであります。
その後、足を組んだり、正座したり、ヨガのポーズをしてみたり、今までできなかった(諦めていた)動きをしても「痛み」はなく可動域も問題ないのであります。
見方(心の方向)が変われば体も変わるのであります。
「遺伝・骨の変形」から「筋肉痛」へ、「治らない」から「治らない訳がない」へと心が反転し、クルリと良くなってしまったのであります。
「もう、諦めていたんですが…予約お願いします。」という時の暗い面影はなく、本人も言ったことすら覚えていないのであります。
私の見方では、「もう、諦めていたんですが…」という言葉の先には
「本当は諦めていない。」「心の奥底では治ると信じている。」という決意の裏返し、諦めへの否定が隠れているとみるのであります。
このように3年も悩ませた股関節の痛みが1回で劇的に変化するというのは生命の力を感じずにはいられないのであります。
股関節の痛みを遺伝、骨の変形と見るも、筋肉痛と見るも自由自在であり、見方が変われば心も変わるのであります。
そして、肉体は心の現れ、心身一如でありますから肉体は心で観たとおりに現れるのであります。
また、このような例だけでなく、段階を踏んで良くなる例もあるのでありますが、それはそれでとても素晴らしいのであります。
善き方向に顔を向けていれば時期は異なれど必ず善き方向に向かうのであります。
今は未だ光は見えなくとも、光の方向に舵をとっていれば必ず灯台は見えてくるのです。
桜は冬に咲かないけれども、春という最も適した季節、最も善い時期が来たら必ず花開くのであります。