梅干しやレモンと言っただけで「酸っぱい」と想像し、実際に唾液がでる。
嫌な人を想像しただけで心拍数は上がり、汗が滲み、体はこわばる。
好きな人のことを考えただけで胸がキュンと締め付けられて呼吸も速くなる。
試験や面接のことを考えるとお腹が痛くなる。
恥ずかしいと思ったり、怒ったりすると瞬時に顔が赤くなる。
このように言葉、想像、思考、感情が実際に肉体に変化をもたらすわけであります。
レントゲンやMRI、血液検査、または解剖をしてみても肉体の変化の結果は数値や視覚として現れるのだけれども、原因である梅干しやレモンはどこにも見当たらないのであります。
ちょっとした感情の変化でも肉体は反応するのでありますから、常日頃発している言葉、思考、感情というものが肉体に及ぼす影響というものは測り知れないのであります。
ショック死というのは恐怖により誘発される急性心不全でありますが、恐怖という感情で死ぬ人もいるのであります。
故に、肉体のあらゆる反応、つまり、病気、痛み、健康、不健康の種は言葉、思考、感情ということになるのであります。
そもそも物質である肉体が病気になったり痛みで苦しむということはナイのであります。
死体が病気になったり痛いと感じますか。
病気になったり痛いと感じるのは生きているからであり、そこに生命が存在するからであります。
生きているのは肉体という物質が生きているのではない。
その人の心が生きているのであり、そこに生命が存在しているからであります。
痛みというのは現象的、物質的に見ると筋肉の緊張(こわばり)であり、神経の過剰反応であり、脳の誤作動、ホルモンバランスの乱れということになるのであります。
然し、根本的に痛みの問題を解決するには、この筋肉、神経、脳の反応を制御しているもの、痛みを生ずるものの正体というものが何であるかというところを掴まなければいけないのであります。
擦りむいたら血が出て、カサブタになり、皮膚は再生されるのです。
骨折をしても骨は2ヶ月もあればくっつくのです。
火傷をしたら肌は赤くなり、水ぶくれができ、やがて癒るのです。
風邪を引いたら熱を出しウィルスを死滅させるのです。
この生命の癒す力を自己治癒力、自然治癒力というのであります。
自己治癒力というのは誰にでも備わっていて、肉体を善くしようとする力、善くしようとする働きであります。
自己治癒力は毎分、毎秒、休みなく我々の肉体を善くしようと働いているのであります。
つまり、我々の肉体は本来、何もしなくても自然に善くなるようにできているのです。
そして自己治癒力を高めたり、或いは停止させるもの、健康、不健康を左右するものが言葉、思考、感情であります。
これは観念論ではありません。
物理的、科学的に追求すればするほど言葉、思考、感情、或いは生命といったものに辿り着くのであります。
あるカウンセリングの風景
これは、ある女性にカウンセリングを依頼された時の私の心の中の話であります。
30代女性。10年前に腰椎固定術を行い症状が悪化。術後3年間は働けず自宅療養。10年経った現在でも腰痛と臀部のムズムズ感が消えない。
はじめ、電話で相談内容を聞き、電話を切った後に私はこう考えたのであります。
10年間も症状が消えないのは、主治医を赦すことができない心、憎しみ、恨み、怒りが「痛み」の原因である。
「こんな辛い思いをしているのはお前(主治医)のせいだ。」という心が、その証拠である「痛み」を手放さないのである。
自分を憐れに思う心が自分を不幸にしておくためのアイテムである「痛み」を大切に保存しているのであると。
このブログを読んで依頼してくれた方ならば、この厳しい言葉の真意を理解してくれるだろうなどと思いつつ・・・
しかし、実際にお会いしてみると私の予想は良い意味で裏切られたのであります。
私は人相見ではありませんが、直感的にこの人は周りの人を幸せにする人であって、決して人を恨んだり憎んだりする人ではないという気がしたのであります。
本人も腰の痛み、臀部のムズムズ感というものが感情によるものかもしれないと思ってはいるが、どんな感情によって引き起こされているのかがわからないというのであります。
主治医を憎んでいるのかもしれないし、そうでないかもしれない。
手術を決断した時の母親の素っ気ない態度に悲しみを感じたのかもしれないし、そうでないかもしれない。
自分を3年間働くこともできない状態にした「痛み」に対する不安や怒りかもしれないし、そうでないかもしれない。
穏やかな優しい女性であります。
少し気になったことは、何年も治らなかった腰痛が、手術の前日に痛みがなくなったという話であります。
手術の前日に急に痛みがなくなり、不思議に思った彼女は、いつもは痛くなるはずの立ちっぱなしや座りっぱなしを何度も繰り返したというのであります。
それでも腰は痛くならない。
腰の痛みはないけれども、手術前日にキャンセルできる状況ではなく、予定通り手術を行ったというのであります。
術後、腰の痛みは悪化し、痛みを麻痺させるためにブロック注射を打ったら、今度は臀部に違和感を感じるようになったというのであります。
医師に対する不信感、痛くなくなったのに手術を行った後悔、ブロック注射の恐怖体験などが痛みを悪化させたのかもしれないが、時間とともに感情は心の奥底に隠れてしまっているのであります。
このような場合は強引に暴露したところで問題は解決しないのであります。
同時に、私には彼女が、明るく健康的な優しく愛情豊かな女性にしか見えないのであります。
また、カウンセリングといいつつも、彼女が施術を希望したため、簡単な施術を行ったのでありますが、数分施術を行うと腰の痛みと臀部のムズムズ感が消えたのであります。
はたして、皆さんはこの状況をどう考えるのでありましょうか。
愛情と痛み
ここにカウンセリングの補足、というより仮説でありますが、少し記したいと思うのであります。
彼女には二人の妹さんがおり、辛い時、苦しい時に彼女は「妹達のために生きる。」と自分を励まし、奮い起たせたというのであります。
また、妹は自分の善き理解者であるということも言っておられたのであります。
ここからが仮説であります。
私は、彼女が善き姉であるということ、母親が素っ気ない(違う表現だったかもしれないが)ということ、手術の前日に痛みがなくなったことに注目するのであります。
大概、長子は幼い時から良い子でなければいけないという強い義務感のもとに成長するのであります。
お姉ちゃんだから親の言うことを聞かなければいけない。
お姉ちゃんだから辛くても甘えてはいけない。
お姉ちゃんだから我慢しなければいけない。
お姉ちゃんだから妹の面倒を見なければいけない。
何回も親に言われ、何回も自分に言い聞かせ葛藤しながら成長するのであります。
時に、我慢している自分、頑張っている自分でなければ親は認めてくれないと錯覚してしまうこともあるのであります。
また、認められたい、褒められたいが故に、もっと甘えたい、もっと愛して欲しいという気持ちを抑えるのであります。
彼女には、腰痛を我慢して仕事を頑張っている自分、手術を要するほどの痛みに耐えてきた自分を認めて欲しいという気持ち、この辛さをわかってくれないという苛立ちがあったのかもしれないと推測するのであります。
どこにも手術をしたいなどという人はいないのである。
彼女は、誰かに手術を止めて欲しかった、誰かに頑張りを認めて欲しかった、褒めて欲しかった、もっと甘えたかった、もっと愛情を感じたかったのであります。
手術前夜に痛みが消えたのは手術をするほどの痛みであるということを証明したからかもしれない。または、十分な愛情を感じたため、手術をする必要がなくなったのかもしれない。
いずれにせよ、この時の彼女の心境を想像すると、表現できぬほどの寂しさを感じるのであります。
この時、彼女はまだ20代であります。
自信を取り戻す
長子は年長者であるという自覚から、必然的に責任感、正義感が強くなる傾向にあるのであります。
責任感、正義感が強くなりすぎると裁く心となり、小さなことでも赦せない心になるのであります。
正義感が強くなりすぎると、親や医師の不誠実(に見える)な言動、態度が赦せないのであります。
それが術後の症状の悪化の一因であると考えるのであります。
正義感から発した「赦せない心」というのは利己的な心から発したものよりも、尚強いのであります。
赦せない心を堪え、我慢して赦そうとすればするほど「赦せない自分が赦せなくなる」のであります。
我慢とは強い自己意識から起きる迷いの心であり、自己意識に執着した心であります。
自分は◯◯だからという意識を掴んで離さない心であります。
◯◯だから◯◯しなければいけない、◯◯だから◯◯でなければいけないという「◯◯でなければいけない、◯◯であるべき」という心に縛られて苦しいのであります。
例えば、自分は正しいのだから相手はこうあるべきだ。と思った途端に苦しくなるのであります。
我慢するということは、家族や他人には親切であっても自分には不親切であるのであります。
ストイックと表現することもできるが、ストイックとは絶対なる自信、自分の力を信じる心があるからこそ困難を楽しむことができるのであります。
本当の自分
自信とは自分の力を信じる心であります。
自信がないとは、自分の力を過小評価することであります。
然し、そもそも自分というものは一体なんでありましょうか。
10年もあれば全身の細胞は新陳代謝によって全て入れ替わっているのであります。
肉体が自分であるならば10年前の肉体と今の肉体は別人ということになるのであります。
脳が自分であるならば10年前の脳と今の脳は別人ということになるのであります。
肉体は洋服のようなものでそれぞれの季節(年齢)に合わせて着替えるのであります。
夏には夏の服装あるように、30代には30代の肉体を着ているのであります。
生まれてから変わらないものでなければ「自分」というものは存在しないのであります。
生まれてから変わらないもの、つまり、自分とは自分の生命であります。
肉体という物質が人間の本質ではないのでありますから、どんなに肉体が傷ついても、腰が痛くて何もできないと感じても、なに一つ自分の価値を下げるものではないのであります。
なにがあってもあなたの生命(この場合は人格と言った方がいいかもしれないが)は傷つかないのであり、未だ傷ついたこともなく、価値が下がったこともないのであります。
善い子は善い子になろうとしなくても、そのままで善い子なのであります。
何があっても本来の自分は変わらないのであります。
自信とは自分の可能性を絶対的に信じる力であります。
本来の自分を絶対的に信じる力であります。
過小評価のメガネ
自分の人格、自分の価値が下がったり、傷がついたように見え自信を喪失するのは、傷がついていると思い込んで見るからであり、傷がついたメガネをかけて見るからであります。
過小評価のメガネを外して見れば、あなたはそのままで素晴らしいのであります。
家庭を持つことも、子供を産むことも、自立することも、腰が痛いことも、暗いメガネをかけて見れば暗く見え、度が合わないメガネをかけて見ればボヤけて見えるのであります。
そのままで素晴らしいとは、ありのままで素晴らしいということであります。
(実際に素晴らしい娘であり、素晴らしい姉であります。)
明るい照明に換える必要も、明るいメガネを探す努力もいらないのであります。
過去のメガネ、過小評価のメガネを外し、「今」の自分の素晴らしさをジッーと見つめ、自覚し、本当の自分を素直に表現した時に全ての雲はスーッと消え去り本来の美しい輝きを現すのであります。
(あなたが活き活きと働く姿、笑顔がどれだけの人を喜ばせ、幸せにしているかをもっと、もっと、もっと自覚して欲しいと切に願うのであります。)
逆説的ではありますが、今まで曇っていたかのように見えた苦しみや悲しみさえも本来は美しいのであります。
苦しみや悲しみに耐え、何度倒れそうになっても起き上り、今まさに克服しようとするところに美しさがあり、感動があり、勇気と希望があるのであります。
(「私には彼女が、明るく健康的な優しく愛情豊かな女性にしか見えないのであります。」と言った理由はここにあるのであります。)
「今まで自分が不幸だと感じたことはありません。」
帰り際に言ったこの言葉が彼女本来の力強さであり、美しさであり、素晴らしさであります。