痛みとは何か?と問うたときに、あなたは何と答えるでありましょう?
感情的な表現をすれば、痛みとは不快なもの、辛いもの、恐いものでありましょうか。
擬人的表現をすれば、痛みのせいで仕事ができない、集中出来ないというような厄介な存在、日常生活や、やりたいことを制限する邪魔者、夢や幸せを奪う悪党でありましょうか。
何故私だけ、何故こんなときに、何故こんな目にあわなければいけないのか。
この悪党である痛みを殺してしまいたい、消し去ってしまいたい、あるいは騙し騙しでも手なずけてコントロールしたいと思うのでありましょうか。
しかし、鎮痛剤や緩和剤を使って痛みを抹殺したり、コントロールしようとして、いつの間にか薬に依存したり、副作用という別の痛みに支配されてはいないだろうか。
手術後、痛みが再発したり他のところが痛むということはないだろうか。
肉体的痛みから解放されたにも関わらず、心の痛みに苦しんでいる人はいないだろうか。
「痛み」はあなたに何を訴えているのか?
痛みは心と体からのサイン
客観的にみた場合、痛みや症状というものは心と体からの信号、サインであります。
体からみた場合は、物理的刺激を細胞が電気信号に変換し、脳に伝え体の異変を痛みとして我々に伝えるのであります。
心からみた場合は、心的刺激(ストレス)を脳が神経伝達物質やホルモンという体の信号に変換し、免疫系、内分泌系、自律神経系等に伝え異変に対応するのであります。
痛みを肯定的に見た場合、痛みとは異変を報せる信号であり、異変に対応しているという(治癒の過程を報せる)サインであります。
つまり、痛みは心と体の状態を報せるメッセンジャーであります。
メッセンジャーというのは何かを報せる必要があるから存在するのであります。
ところが、治療する側も含めて、ほとんどの人はこの何かを報せようとしているメッセンジャーの声を聞かずに、唯々悪党扱いし、抹殺しようとするのであります。
痛みが心と体の異変や治癒の過程を報せるサインであるならば、抹殺せずとも心と体の損傷が修復されればメッセンジャーは役目を終えて自ら立ち去るのであります。
なかには(怪我や骨折など)薬や外科的処置が必要だと報せてくれるメッセンジャーもいるかもしれません。
そういう時には素直にメッセージを受取って物質的処置をしてあげればいいのであります。
しかし、何度も再発する痛み、何年も続く痛みというのはまた別のメッセージを発しているのであります。
痛みとは、何かを変えようとするサイン
体というのは毎分、毎秒、細胞を入れ換えて新生しているのでありますから、1年前の体と今の体は別の体であります。
その別物であるはずの体が何年も痛いというのはどういうことでありましょうか。
何年も同じメッセージを発し続けるのはなぜでありましょうか。
そこには何年も前から変化していないものに対するメッセージが込められているのであります。
この場合の痛みとは、何かを変えようとするサインであり、修復または変換の必要を訴えている信号であります。
痛くなるところを変えたり、痛みの強さや質などを変えたり、手を替え品を替えて何かを訴えているのであります。
再発、慢性化した痛みは何を訴えようとしているのか?
肉体や環境などは時と共に変わるものであります。
何年も変わらないものがあるとすれば、心に掴んで放さないもの、執着心、心の引っかかり、心の癖、心の習慣であります。
心(思考や感情、想像)の習慣が、体の習慣、行動の習慣となり、痛みの習慣となるのであります。
痛みは何を訴えようとしているのか?
痛みは何を変えようとしているのか?
あなたの心を掴んで離さないものは何か?
自分自身に対してなのか、家族に対してなのか、他人に対してなのか、仕事に対してなのか、痛みの不安に対してなのか、何を掴んで離さないのか自分に問うてみることであります。
自分に問うてみて痛みがどう変化するかジッと眺めてみるのであります。
痛みは心の習慣を変えよ、行動の習慣を変えよというメッセージを発し、心の変化、成長を期待し、鼓舞し、叱咤激励しているのではないだろうか。
悪党扱いされ、あらゆる手段を使い抹殺されようとも、それでも何かを伝えずにはおれないのではないだろうか。
答えはすぐに見つからないかもしれない。
たとえ見つかっても目を背けたいことかもしれない。
しかし、痛みが何を訴え、痛みにどんな意味があるのかを観ること、心で知ろうとすることそのものが心の変化であります。
少なくとも理屈をこねて何もやらない習慣からは一歩踏み出すことができるのである。
どうせとか、何をやってもとか、結局とかいう言葉の習慣は「治らない」という自己暗示であります。
〜のせいでできない、〜だからできないという思考の習慣は「自分には力がない」という自分自身、自己治癒力(善くなろうとする力)に対する冒涜であります。
我々は痛みを忌みきらい、痛みに責任を押し付け、悪のレッテルを貼るのをやめようではないか!
痛みを理由にして悲観と不安を行ったり来たりする習慣をやめようではないか!
ある御婦人は、医師に臼蓋形成不全と診断され、手術を勧められるほどの股関節痛を「全て善し、全て可なり。」この一語によって自分を奮い立たせ、自らの力で克服したのであります。
「克服した先にもう一人の自分が手招きして待っているようでこの先が楽しみです。痛みと供にある自分自身が、未来へ向け、勇気を持って強く進んで行けると強く感じました。」
彼女にとって「痛み」はもはや悪党ではなく、自分の力に気付かせてくれた善きメッセンジャーであります。
5年という永い歳月、痛みが彼女に訴え続けていたものは何だったのか…
痛みや症状は心の習慣を象徴的に表現し、我々に心の変化、心の成長を求め訴えているのであります。